第5期:新王朝応神天皇の凱旋的降臨と天皇家と「伊勢神宮」に隠された謎
第15第応神(おうじん)天皇の父は先帝仲哀(ちゅうあい)天皇で、母は神功(じんぐう)皇后こと息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)とされますが、異説も多いです。その理由は異常に出産が遅れたことにあります。父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の『神代記』)とある住吉大神や、あるいはまた武内宿禰(たけのうちすくね)とする考えもあります。このような出生の神秘性は、本来応神天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされる説もあります。しかしながらこの説は欠史八代を唱える場合に存在し、天皇の存在が系図通りであるのであれば、直系嫡子ではありませんが、神功皇后は九代開化天皇につながり、また父親を武内宿禰とした場合にも八代孝元天皇に繋がってはいます。既にこの時期は倭国大乱期であり、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后が神のお告げを受けました。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託でありましたが、仲哀天皇はこれを信じず神を非難しました。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまわれたのです。やはりこの時代には神懸りする巫女的女性が多く神功皇后が卑弥呼ではとの説もあるくらいです。だが神功皇后は自ら先頭に立ち、筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻められたのです。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したとされる三韓征伐の逸話もあります。三韓征伐より畿内に帰るとき天皇の異母兄たちが反乱を起こして戦いを挑みましたが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命(たけふるくまのみこと)の働きによりこれを平定し凱旋を果たしました。
そして、応神天皇は71歳で即位とあり朝鮮の帰途に生まれたにしては、畿内への凱旋に時間が掛かりすぎてはいないのか。しかし井上光貞氏は、確実に実在が確かめられる最初の天皇とし、河内王朝の始祖と見なす説を唱えています。確実なのは次の仁徳天皇との説もあります。
こうして第16代仁徳天皇へと天皇家が引き継がれて行くこととなるのですが、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった。と言う記紀の逸話(民のかまど)が残るように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来するものと言われます。また、古事記には、「この天皇の御世に、大后石之日売命(いしのひめのみこと)の御名代として、葛城部を定め、また太子大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)後名代として、壬生部を定め、また瑞歯別尊(みずはわけのみこと)の御名代として、蝮部を定め、また大日下王(おおくさかのおお)の御名代として、大日下部を定め、若日下部命(わかくさかべのみこと)の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また、秦人を役ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江を掘り、また墨江の津を定めたまひき。」と記されています。
此の仁徳天皇の時代になり少しずつ世の中が落ち着きを取り戻し、大和王朝としての統治・統制が可能になってきたのであります。歴代天皇自身に於いては夫々の治世に於いて国の為を思い、政務執行を司っていたことと思われます。そうした中で権力が集中してくると、後継者争いが諍いの種に発展していったのでしょう。
天皇家と『伊勢神宮』に隠された謎に就いて・・・
天皇家の祖人『天照大神』がいつから、ヤマトから遠く離れた伊勢の地に祀られたのか、何故そんなに離れた伊勢でなければならなかったのか等、いくつかの謎とか、そこに定められた地に関わる色々な不思議な関係に就いては、もう少し勉強を重ねてみる必要があり、後日の機会ある時期にまとめた報告をしたいと思います。
今回の報告について
今回は、私が思いつくままに頭に浮かび上がる出来事を、手元にある数少ない資料を基に、インターネットでの資料を参考にさせていただきながら記述してきましたが、その検証についてはこれからのことであり、またその検証すべき遺跡あるいは遺物を果たして見出すことが可能なのかどうかとても不安ですが、神から委託された宿題であり、神々のお力を仰ぎながら頑張って検証を進めてゆきたいと思います。
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以下参考にさせていただきありがとうございました。
参考出展資料:古事記-Wikipedia 日本書紀-Wikipedia
海人の国(homepage2.nifty.com)
田中豊先生:編纂「真清探當證」復刻版上巻
一宮市史 他 記述した各神社ホームページ