第4期:尾張国三ノ宮「熱田神宮」に関わる『日本武尊・先霊神邇邇芸命』の天孫降臨
12、13、14代の天皇称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されています。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定するならば、古事記、日本書紀とは色々記述に違う部分はありますが大方の部分として記述することとします。
景行27年8月、熊襲が再叛。10月に日本武尊を遣わされ、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
景行40年10月、日本武尊に蝦夷征討を命じられる。尊は途中、伊勢斎宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かり、尾張国の宮簀媛(みやずひめ)の兄、建稲種命(たけいなだねのみこと)を副将として伴い、陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛と結婚。日本武尊に随行した宮簀媛の兄、建稲種命は別行動にての東征の帰路、駿河の海で亡くなったと言われます。
その後日本武尊は、宮酢媛の屋敷の桑の木に、剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができず剣を宮簀媛のもとに残したまま、近江国に出向きますが、伊吹山の荒神に祟られて身体不調になり、そのまま伊勢国に入られる。能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり、「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなられるのであります。その時、尊は白鳥と化身し大和へ戻ったとされる白鳥伝説が有名であります。
宮簀媛は日本武尊の崩御後、熱田に社地を定められ、残された草薙剣を尊の御霊代・御神体として奉斎鎮守し祀ったとされます。後々宮簀媛の子孫尾張氏が大宮司職を務め、相殿に、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神々を祀ったとされます。
ここに熱田神宮が尾張三ノ宮とされる所以でしょう。
この項の初めにも記述しましたが、時代的に一番歴史的記述が不安定であることに誰もが気づかれていることでしょう。また、この時代が私の一番気がかりとなる時代、今から千八百年から千七百年前の時代となり、私の目前に琴玉姫が降霊され言われた「琵琶湖から諏訪湖の間の統治」時代と重なってくるのです。検証するべき事跡がないので立証はできませんが、この不安定な時代が卑弥呼の時代とも重なっているのには、何か因縁めいたものがあるに違いないと考える次第です。
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝) によれば
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。
『三国志』に前記の記述があり、『後漢書』『梁書』『隋書』『北史』と五書ともに、同じ様な記述があり、争乱の時期を2世紀後半としている。
既に、「崇神(すうじん)天皇時代、国内に疾疫が多く、民の死亡者が半数以上に及び、住人が流離したり、反逆するものがあり、その勢いは徳をもって治めることが難しかった。」とあります。垂仁(すいにん)天皇時代、日本武尊が西は九州、東は陸奥へと征討に向かっていた時代が既に倭国大乱が始まっていた時代なのでしょう。倭国大乱がどの程度の規模のものだったかについては、諸説分かれています。九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が発掘されており、山陰の青谷上寺地遺跡で刀傷のある人骨などが発掘されています。それらの傷が国同士の戦闘を示すかどうかは定かではありませんが、人間を殺傷する行為そのものは起きていたことがわかります。それらの例から倭国大乱は北九州のみあるいは出雲と畿内のみ、あるいは北九州から畿内山陰にかけてだったとする説もあります。瀬戸内海地域から2世紀後半頃の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)が数例あることを根拠に、北九州から畿内山陰だけでなく瀬戸内海沿岸もそうであったとする説もあります。
そうした中、卑弥呼の登場する邪馬台国等が都でも大和国を平定統治できる男系王あるいは部族がなく、鬼道=神の言葉=言霊を扱える巫女的女性を中心に各部族あるいは各地域で小規模に統制していったのではないでしょうか。中でも卑弥呼の登場する邪馬台国が当時の一大勢力であったのでしょう。邪馬台国の位置に関しては北九州説、奈良盆地説等諸説言われていますが、その邪馬台国に対抗する勢力として、狗奴国等の記載が中国文献に見られ、古墳時代前期前半に前方後方墳を造営していた濃尾平野以東の東日本の諸勢力の前身で大型の前方後方形墳丘墓を営んでいた濃尾平野の勢力を狗奴国と見る説もあり、特に私が注目するのが一宮市の浅井遺跡群の中でも人麿塚が初期古墳といわれ其の近辺に前方後方墳が3基存在します。また今伊勢遺跡群、萩原遺跡群をはじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、この一帯に広がっていた邪馬台国に匹敵する大勢力国であったと考えに至るのであります。そう考えるとき私の前に降霊された言霊の姫たる神は石刀のツルギにより降臨された天火明命の孫娘として此の地で生まれ、邇邇芸命の巫女として大神の言霊を伝えてこられた豊姫(”豊受大神?”)の御先霊神ではないのでしょうか。それが故、尾張氏一族が大宮司職を司る地域、丹波籠神社はもとより、尾張国一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮を中心とした尾張一体を統治していたとの考えに至る次第であります。
参考:熱田神宮 主祭神:熱田大神=草薙神剣(天照大神、日本武尊の御霊代)
相殿神:天照大神 素盞嗚尊 日本武尊 宮簀媛命 建稲種命
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